どうして「スバラシキ英国園芸ノススメ」なのか

ちょっと読んで 「あんまり面白くないなぁ」 と思った方。
騙されたと思ってしばしお付き合い下さい。

7年間の英国留学中にしたためたメールは300を越えました。
そしてこれが 「尻上がり的」 に面白くなっていくのです。

当初の初々しい苦学生の姿から、徐々に英国に馴染んでいく様子は100%ノンフィクションのリアルストーリー。

「スバラシキ英国園芸ノススメ」の旅はまだ始まったばかりです。

2013年8月30日金曜日

2003年01月19日 「ニース」



銀行員だったときのこと。

とある会社にて、経理担当部長と話をしている最中に、競合銀行の若い担当者が来て鉢合わせになったことがあります。

彼の差し出した名刺の名前の上に「中小企業診断士」とタイトルがついていました。

「若いのにやるじゃないの」(当時の自分も十分若かったとは思いますが)という敬意と、「カッコええじゃあないの」という単純な感情が沸き、「あんなお子様みたいなのが取れる資格なら、オレも取っちゃおうじゃあないの」と意気込んで、早速通信教育を申し込んだものの、思ったより手強いのと、スグに飽きがきて毎月届く教本は封すら開けずに埃をかぶる結末を迎えたのでした・・・・。

さて、この度週末を利用して先週の土曜日から火曜日まで南フランスはニースに3泊4日で一人旅をきめてまいりました。

特に目的があったわけではなく、たまたま格安航空券を見つけたので、ショボいイギリスの天気から開放されて気分転換が出来れば、という軽い気持ちで出掛けました。

ニースとはいっても「貧乏旅行」ですので宿泊はモチロン「ユースホステル」です。

因みに一泊朝食付で13ユーロ。

そこで上智大の学生に出会ったのが今回の旅の収穫だったと申せましょう。

夜、食堂でフランス人とフランス語をペラペラと喋る東洋人の若者を目にしましたが、よもや彼が日本人とはつゆ知らず。

後で話を聴くと「大学の一般教養でフランス語をとり、興味があった」「かれこれフランスを放浪して一ヶ月で脳は完全にフランス化している」とのこと。

そんなんで喋れちゃうモンなの?って感じでしたが。

大学2年を終えたところで、一年休学して英国のニューカッスル大に私費留学し、これから帰るのだとか。

その話と彼のフランス語を聴いて、「若いのにやるじゃないの」という敬意と、「カッコええじゃあないの」という単純な感情が沸き、「あんなお子様みたいなのが、そんな短期間で喋れるんだったら、オレも喋っちゃおうじゃあないの」と意気込んでヨークに戻り、イの一番に学校の図書館に行き、「BREAKTHROUGH FRENCH」とかいうテープ3巻付の教材を借りてきて早速勉強を開始。

オレはやるっ!!と今のところはモチベーションはかなり高いですが、どうなりますやら。

そんなフランス語やるくらいなら、花の名前のひとつでも覚えろって感じでしょうか。

でも、ヨーロッパの非英語圏に行くといつも思うのは「ああ、喋れたらなぁ」ということですので、フランス語で少しでも意思疎通できればスイス、カナダなんかでもいいでしょうし、同じラテン語圏という意味ではスペイン語、イタリア語あたりにも応用が利くのでは?と思うのですが、どうでしょう。

さて、話を戻すと、ニースはアルファベットで綴ると「NICE」、ナイスも「NICE」で、じゃあ「ニースはナイスなところか?」というと、自分の答えとしては「まあナイス」です。

基本的に高級リゾート地ですので、「お金があればもっと楽しい」とは思いますが、お金がなくてもそれなりに楽しめました。

まず、なんと言っても「天気が良い」(良かった)。

滞在中は一片の雲もなく晴れ渡り、常に鬱陶しい天気の英国から逃げて来た甲斐が大いにありました。

海はいかにも地中海といった感じで、ラムネのびんのような色をしており、マチスやシャガールの絵画が生まれるのもつくづく頷けるのでした。

レストランといえばパスタ、ピザがメインでフランス料理というよりはイタリア料理的でしたが、嬉しいことに安くてウマイのはナイスでした。

その他に気が付いたことといえば

①犬好きは英国人以上とみた。レストラン、バス、電車、店・・・どこにでも出入り可能のようで、混み合ったバスの中で大きなジャーマンシェパードが座席ひとつ分を占領していたのには、感心(?)した。
その代わり、街の中は犬のフンだらけ。

②女性は概してオシャレ。
特に目に付いたのは「毛皮」をまとった女性が多いこと。
最近は動物愛護の観点からも着る人が減ったとは思うが、ここはさながら毛皮ファッションショー。

③街のいたるところにカフェがあり、フランスなので皆「カフェオレ」なのかと思いきや、ほとんど皆といっていいほど「エスプレッソ」だったのは意外。
などなど。

そう!最後に事件が。

インフルエンザで年を越してしまったせいか、今年のワタクシ、どうやら一筋縄ではいかないようデス。

3日目の朝。外出するについては荷物が嵩張るので、パンツ、靴下、ズボン、ティーシャツといった着替えを大きなナイロンの袋にいれて、それをベッドの上に置いて出掛けました。

別に貴重品でもないし、そんな他人のパンツなぞ盗るやつはいないだろう、とタカをくくってイザ街へ繰り出しました。

戻ったのが遅かったため、部屋は既に消灯され他の約5人はイビキ・寝息をたてて寝ていました。

電気をつけるのも悪いなと思い、脱ぐものだけ脱いでサササ、とベットに滑り込みました。

翌朝起きて「さあ、シャワーでも浴びて着替えっか」とナイロンの袋をたぐり寄せると、妙に袋が小っちゃくなっちゃってます。

中を慌てて見ると、ズボンとティーシャツがありません。

「あらー、やられちゃったよぉ」とガックリきましたが(というかむしろそんな切羽詰った奴がいるのか、とそっちの方がオドロキでした)そんな置いとくほうが悪いと自分を戒め、朝食をとりに食堂へ。

脱力しつつ食事をしていると、目の前を通り過ぎて隣のテーブルに座ったイタリア人が「スゴーク似ている」ズボンを穿いています

「あらっ、ひょっとしてあれ、オレんじゃぁない?」と思い目を凝らしてはみるものの、「そんな取ったものを取った本人の前で穿かないだろう。いくらなんでも・・・」
「イカン、イカン。人を疑うのは。無くなったのは自分が悪いんだから」と忘れることに。

食事を終え部屋に戻る際に、これまた偶然にそのイタリア人が自分の前を階段を上っていきます。

そのズボンの裾を見て「!!」。

それは自分が裾上げしてもらったときの縫い目に他ならなかったのです。

いきなり喧嘩腰ってのもいただけない、と思いここはひとつ大人に。

笑顔で「あのサ、そのズボンサ、君のかな?ボクのだと思うんだけど。どうしたのそれ?」と聞くとイタリア語で色々言い訳を始めましたが、表情は「しまったっ」というのがアリアリ。

お互い言葉が通じず押し問答しても埒があかず、管理人を呼ぶためにその場を離れ、管理人と戻るとそのイタリア人は既にズボンを履き替え、僕の部屋にそれまで着ていた僕のズボンを投げ込んでありました。

管理人にティーシャツもあるはずだ、といって彼の部屋に入るとワタクシの愛しいティーシャツが棚の上に。

管理人は彼に「出て行ってくれ。警察を呼ぶぞ。」と言い渡し、一件落着となったのでした。

最初は笑顔での交渉でしたが、話しているうちに興奮してきて悪口雑言が出るわ出るわ。

しかも全て英語でですので、自分の語彙の豊富さに我ながら感心したのでした。

コレ、明らかに映画・TVの見すぎです。

次はフランス語で、などと夢は膨らみます。

そんなニースな旅でした。

(追伸)
ご心配かけましたインフルエンザですが、現在95%の回復で、思いのほかシツコクて驚いています。
相変わらず右耳が聞こえないのですが、医者に相談したところほっとけば治るとのこと。
病名は「Secretory otitis medial」と言われさっぱり分からなかったのでインターネットで調べたところ滲出性中耳炎だそうです。
インターネットって便利ですね。

2013年8月22日木曜日

2003年01月04日 ブルーな年明け


新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

さて、今回は少々長いですがお正月休みの暇つぶしに読んでいただければ幸いです。

「一年の計は元旦にアリ」てなことを申しますが、そうだとしますとこの一年、先が思いやられる波乱の幕開けの予感です。

今回の年末年始の身分は「100%学生」でしたので、与えられた2週間のクリスマス休暇、半分は遊んだとして、半分は勉強。

その遊びの部分はヨークに独りでいてもつまらないので、ケンブリッジ界隈の友人宅をクリスマス・イブから泊まり歩き、仕上げは毎年恒例の植物園内で気のおけない仲間たちと焚き火、BBQ、とし、元旦早々元気にヨークに戻ってくる、という計画でした。

しかしそこは一筋縄ではいかない、ままならない人生。


12月24日(火)
クリスマス・イブ。昼過ぎに約一週間分の着替え、寝袋などを車にのせ、一路ケンブ リッジを目指す。

曇天ながら気分が良く、快適な2時間半のドライブ。

かつての住まい「GWYDIR STREET」のビル君を訪ね、そのまま二人でパブへ繰り出す。

閉店時間まで4件ハシゴす。夜は寝袋に包まりビル君の部屋の床で。

12月25日(水)
クリスマス。ビル君と二人で、約50キロ離れたセント・オーバンズという街に住むビル君のお姉さん(リズ)の家を目指す。

リズの家にはビル君のご両親も既に到着し> ていて、お母さん(スーザン)はリズと二人でクリスマスのご馳走作りで忙しい。
 
お父さん(ジョージ)とビルと僕の3人で料理が出来るまでの間近所のパブで軽くやる。

夕方近く、ビル君家族に混ぜてもらいクリスマス・ディナー。

七面鳥、温野菜、ソーセージなどで満腹のあと、これでもかこれでもか、と大味のデザートがでてきて、もはや限界に近い。

恒例のクリスマス・プレゼント交換。

大したものではないが、大袈裟な包装を皆お構いなしにビリビリと破いて大騒ぎ。

僕は本3冊、皮の作業用手袋などもらう。
感謝。

夜は皆でTVを見て過ごす。
就寝はご両親はリズのベッド、リズはソファ、ビルと僕は寝袋で床に雑魚寝。

12月26日(木)
ボクシング・デー。

今日はビル家族に別れを告げ、サフォーク州に住む植物園で気の合ったデイブという高木・潅木セクションのリーダーの実家に向かう。

相当な田舎で、地図では容易に見つけられても、実際にはてこずる。

しかし、築200年という典型的サフォークの田舎の家は茅葺で家の中には味わいのある木の梁がめぐり、実に「良いお宅」。

初めて会うデイブのご両親、デイブの2人のお兄さんとその奥さん、あるいは彼女。

皆温かく、実に居心地良く過ごさせてもらう。

ここでもクリスマス・ディナーをご馳走になり、またしても超甘のクリスマスケーキをたらふく平らげる。

食後は皆で「ジェスチャー・ゲーム」などの古典的かつ家庭的ゲームで盛り上がる。 

夜は翌日仕事があるデイブ希望でケンブリッジ市内のデイブのお兄さん宅泊。

12月27日(金)
朝デイブを乗せ、植物園へ。

クリスマス期間のため通常より大幅に少ないメンバーながらも懐かしい面々に再会。

作業を手伝うか?といわれその気になるが、実は朝起きてから少々具合が優れない。

やんわりと断り、少々横になろうにも、植物園のソファは猫が愛用しているらしく、猫の毛だらけで「猫アレルギー」の僕としてはとても横になれない。

仕方なく、本を読んだりして安静にはしているものの「しんどさ」はつのっていく。

金曜のため15:30に仕事が終わり、今日の宿泊先であるケイトの家に彼女と向かう途中、デイブと遭遇しパブで軽く一杯、となる。

が、一杯では到底終わらず次、次、次・・・と結局16:00から22:00過ぎまで飲み続け、仕上げにインド料理屋にいくという、よろしからぬパターンへ。

この時点でデイブも家に帰ることを断念し、僕共々ケイトの家に。

家に着いたあともケイトはウィスキーのビンを取り出し勢いは止まらない。

僕は体調の限界を感じ、01:00に就寝。

二人は03:00過ぎまで飲みボトルを空けた模様。

12月28日(土)
本格的に体調不良。
のどが痛み、咳少々。

朝、元気なのはケイトのみで、デイブも風邪をひいたといって口数が少ない。

今日の午後は僕とデイブはやはり植物園の仲間、マークとヴィッキーの家に夕食に招待されている。

這ってでも行かねば。

デイブは一旦帰って体調を整えるといっていなくなる。

ケイトは街に買い物に行くというので、「14:00まで寝せてくれ」と頼み、誰もいない家でひたすら眠り、体調回復に努める。

14:00何とか起きて、ジョンを車で拾い、マークの家に。

今日の趣旨はマークが手作り料理をご馳走してくれるというもの。

空いた時間はジョンのビデオコレクションのお披露目会。

後からきたデイブもやはりかなり体調が悪そうで、風邪でトーンの低い僕とデイブ、ビデオの見せられすぎでトーンの低いマークとヴィッキーをよそに一人ハッピー独走態勢のジョン。

折角のご馳走ではあったが味わう余裕無し。

夜はマークとヴィッキーは二人の愛の寝室へ。

僕とジョンはそれぞれ寝袋に包まりひたすら眠る。

12月29日(日)
起きた時点で「かなり熱がある」ことを自覚。

なんとしても大晦日の焚き火には参加したいが、このままあと2日間休まらずに宙ぶらりん状態で乗り切るのは得策とは思えず、思い切って一旦ヨークに帰ることを決断。

ここで事故を起こしたのでは悲しすぎると、思いっきりの慎重運転で15:00になんとか無事に帰着。

自宅近くのスーパーを通りかかった際、「チョット待てよ」と立ち寄る。

冷蔵庫はカラなのを思い出す。

取り敢えず何日寝込むか分からず、かつ同居人は暫く誰もいないので、卵、牛乳、鶏肉、玉ねぎ、パン、ヨーグルト、ジュース、グレープフルーツ少々を無意識に買う。
空腹ではあったがシンド過ぎ、そのまま眠る。

12月30日(月)
とにかく鼻水が止まらず、夜中にも寝汗と鼻水で何度も起きる。

ティーシャツを何枚も替える。

洟のかみすぎか、右耳の聴力がほぼ失われ、かつ猛烈に痛む。

あまりの痛さに腰痛の時にと医者からもらった痛み止めを服用。

キリキリとした痛みはかなりのもので、思わず枕が涙で濡れてしまう。

そんな夜を過ごした朝だけに、「今日は医者に行く」と決心も固い。

昼にかつて登録してあった医院へ。

(英国では自分の登録医に診てもらうことになっており、一旦ケンブリッジに再登録した僕は、ヨークで改めてどこかに登録しなくてはならなかったのだが、これを普段健康なのを良いことに怠っていた)事情を説明して、登録をしたいというと「どうぞ」とスンナリと。

書類記入後、「今日診察して欲しいんだけど」というと、受付嬢は「明日の16:00しか空いてませんねぇ」とつれない返事。

ムッとしながらも、そうなんだからしょうがない、と諦め近所の薬局だ け紹介してもらい、「鼻水止め」の薬を買って帰り、眠る。

しかし、この午後の眠りの時点から事態が猛烈に悪化。

体温がグングンと上がっていく。

体温計が無いため、いったい何度体温があるのか計りようがないが、恐らく40度を超えたのではないだろうか。

熱がスゴイくせに寒気を感じガタガタと震えながら湯たんぽを胸に抱え、更に汗をかく。

とにかくこのままではヤバイ、と善後策をモーローとした頭で考える。

ああでもない、こうでもない、と考えた挙句、「救急車を呼う・・・」となる。

しかし、このまま担ぎ出されて入院などしたら、着替えは?歯ブラシは?戸締まりは?などと気になり始め着替えなどをリュックに詰めたりしている間に多少意識がハッキリしてきて、ビル君に電話で相談する。

医院に交渉して今日見てもらうのがいいでは?との冷静なご意見。

肝心の医院の電話番号が分からず、電話帳をめくるもとてもそんな細かい字、しかも英語を読む気力もなく、取り敢えず車に乗りその医院を目指す。

17:30、ヨカッタまだ開いている!!受付嬢に事情を説明しなんとか診てくれと懇願す。

が、むべもなく「無理です、明日来て下さい」とのこと。

ニャロー、という気持ちを抑え「それはご親切にどうも」と返すのが精一杯。

もめる元気も無い。

昼寄った薬局に再度寄り、「この熱を下げる薬をくれ」と解熱剤を手に入れほうほうのテイで自宅に戻り薬をのみ意識を失うが如く眠る。

12月31日(火)
大晦日。

夜中に相変わらず大汗をかいて何度も起きる。

が、解熱剤の作用か、昨日ほどの生命の危険は感じない。

熱のためか、薬のせいか頭がボーとして頭痛がする。

食欲がある気がしたので、まめまめしくご飯を炊いて半分は冷凍保存して、半分はおかゆにして梅干と食す。

味覚が狂っていて美味いのか、なんなのか分からない。

取り敢えずグレープフルーツを剥いてヨーグルトと食べたのは冷たくて美味しかった。

16:00、医者の予約の時間。

ニャロ、昨日の俺はもっともっと辛かったのだ!と主張。

分かりきったことだが「インフルエンザです」との診断。

「1週間で50%、2週間でやっと90%の回復でしょうかねぇ」と有難いんだか、そうじゃないんだか分からない診断で総所要時間8分。

8分だったら昨日楽勝で捻出できたんじゃないの?とその医院に対して大いなる不信を抱き、帰宅。

まだまだ、辛く、そのまま朝まで眠る。

1月1日(水)
世間は元旦。

しかしそれどころではない。

相変わらず汗をかき、洟をかみ、咳をし、身体の節々が痛む。

薬を服用し、湯たんぽを抱えひたすら眠る。

1月2日(木)
峠はどうやら越えた気がする。

しかし薬で押さえつけたものなのか、自己治癒なのか判断がつかず、恐る恐る薬をやめてみる。

夕方、空腹を感じ、この前のご飯を解凍し「とり雑炊」を作り食べる。

イケル。

1月3日(金)
朝、まずまずの目覚め。

相変わらずモーローとはしているが、これは寝込んでいたためと、今日から意識して「起きる生活へ」。

そういえば、夜中に眠たいのに胸がゾワゾワーとしてしばらく寝付けなかったことを思い出し、これを自分なりに「カルシウム不足」と判断。

一週間それらしきものを摂取していないことに気づき慌ててホット・ミルクをたて続けに2杯飲む。

単純。

自分の部屋は一週間換気もせず寝込んだためか「病の臭い」が充満していることに気づき、大々的に換気を行う。

外気の寒さが心地良い。

取り替えまくったティーシャツはもはや在庫が尽き、寝汗まみれのシーツ共々洗濯機へ。

一週間ぶりにシャワーを浴びる。

生きてこのシャワーを浴びれた感激に浸りつつ。(ちょっと大袈裟か)

よしっ!3日遅れたが2003年も元気に過ごすゾ。と遅ればせながらパワーが甦ってくる。

右耳が相変わらず遠いのが気になるが。

ヨシャッと無意味に何度も気合を入れる・・・・